ラジオに対するアプローチに異常なぐらい反応する自分がいる。
自分がラジオを聴いて育った世代だからという事。
もちろんそれもありますが、真実はラジオがキッカケで音楽を自分で作ることになったからなのです。
この辺は一部の人にはすでに語ってるお話ですが…
なんか前にも日記に書いたような気もしますが(笑)
まぁ、本人が忘れているので気にしないでください。
知ってる人は読み飛ばしてくれると有難いです。


話はさかのぼって高校二年生。
もともと、自前のMSX2+や友達宅のPC-9801で打ち込みをしていたのですが、
結局それはゲームの耳コピとか楽譜をそのまま打ち込んでたわけです。
なんとなくピコピコ音楽のなかに光るものがあったというか、ボンヤリと何かが見えてたのでしょう。
当時、ベーマガの記事を見てMMLを理解し、二小節程度のメロが流れただけで感動的でした。
そこで突き詰めていたわけでもなく、ただゲームと同じメロディが流れるだけで満足だったようです。


そんな中でのキッカケは友達の一言。
「ラジオに出てみない?」
どうやら、ニッポン放送でパーソナリティ募集をしていたようです。
中学高校の青春時代にラジオを聴いていた自分に断る要素もないわけで…
技量のことも考えず、早速カセットテープに自分たちのトークを吹き込んでニッポン放送に送りました。
結果は当然ですが不合格、友達と選考に納得がいかないとぼやいたりしてました。


当然、それで諦めるほど賢くなかった自分たちは、次なるターゲットを考えます。その時高校三年生。
それは「TEENS' MUSIC FESTIVAL」という10代中心の音楽の祭典をバックアップしている、
同じくニッポン放送の「ぽっぷん王国」という番組。
ただラジオに出たいというだけで、替え歌を友達が吹き込んだカセットテープを送る事にした。
自分も下手なりに数曲歌ってたかな?
コレは受からないだろうと思っていた矢先、ニッポン放送から連絡が来ました。
そりゃまぁビックリもしますし、何でコレが放送でかかりますか?と、疑問に思ったものです。


ユニット名はその場の雰囲気で付けた「ダガー吉野屋」、ハズカシイ!
当時のパーソナリティの伊集院光のコールで替え歌がかかり、恥ずかしくも感動の瞬間が訪れるわけです。
友達の名義で送りつけたので、自分の名前がコールされることはなかったのでちょっと残念でした。
仮に呼ばれても恥ずかしかったでしょうけど…


結果的にラジオに出れたという上、しかもTMFの予選大会にまで参加できる始末。
予選大会ではウケはよかったものの、さすがにその上に行くはずもなく終了。
気まぐれにテープを出したわりにここまで行けば上出来です。


そして翌年もアタックを開始するわけですが、そこで「前回と同じじゃダメ」と思ったわけです。
そう、オリジナルで勝負しようと…
そのために使えもしないシーケンサ(QY20だったか?)とポップキーボードを二人で購入。
音楽理論も知らないまま、コード進行(ドミソとか)の雰囲気だけで一曲作ってボーカルを録音しテープを送りました。
結果は惨敗!
そりゃそうだ、耐えられないぐらい楽曲がヘタレなんだから…
今聞いてみるとキモチワルイコード進行でした(笑)


自分が音楽を始めるキッカケはコレ。
もう、やってることはアホです。だけど、創作活動としてはは間違っていない。
以後、のんびりとですが「ダガー吉野屋」オリジナルで曲を作ったり、シーケンサを持って行ってはライブをやったり。
音楽に対してアクティブになったのは確かです。
その後もラジオ関係のつながりがあるのですが、その辺は割愛して…
本当に音楽を作るキッカケは、ココからだったのです。


後、「ダガー吉野屋」を一緒にやった友達とは会う機会も少なくなり、そのまま自然消滅。
ほぼ直後、ネットでの音楽配信MIDI)に触れて、現在に至るといった感じです。


ココまで来ればラジオに対する思い入れもわかってくれるでしょう。
単純に音楽人生を変えたのは、特定の番組とはいえラジオなわけです。


長くなりましたが、そろそろD.E.M.O.ねとらじに積極的にアプローチしていきたいと言いたかったわけです。
自分の技量とか抜きに。
媒体がネットだろうと電波だろうと何だっていいわけで、キッカケを作りたいわけですよ。
別にそれが音楽製作にまつわることじゃなくてもよくて、フツーに聞くこともキッカケのひとつだと思いますし。


この長文、書いていて恥ずかしくなってきた(笑)


さらに台無しにする勢いだが、今はそのための時間が欲しい。
現段階で既存のCDをエンコードすら出来ないのは泣けてきます。
表明するだけじゃ参加にはならないからね。


それと、「ダガー吉野屋」のニッポン放送で流れた替え歌がどうしても聞きたい人はツッコミにお願いします。
むしろ、無い事を祈ってますが(爆)